豊隆神社

神社名豊隆神社(ホウリョウジンジャ)
旧社格無格社
鎮座地岩手県一関市字北豊隆60番地
祭神八雷神(ハチライジン。ヤイカヅチのカミ)
例祭日4月20日
宮司小野寺康氏
連絡先〒021−0874
岩手県一関市字釣山19番地
八幡神社社務所気付
小野寺康氏

※「豊隆」は正しくは両文字共に雨カンムリが付く文字。字体が無いので代用した
由緒
関邑略史<享和元年(AD1801) 関元龍>より
 宝龍権現 地名宝龍。祭神不詳 二関兵庫なる者の宅地の鎮守なりと云ふ。其の子孫藩の士臣に列す。即ち今の二関氏なり。按ずるに落雷の地にして即ち雷師豊隆なるか。別当下黒沢三学院。按ずるに二関邑は三学院の檀越(編者注 だんおつ。寺の檀家の意)なり。俗にこれを霞と称す。蓋し大峯に霞と称す。羽黒に旦那場と称するのよし。修験道の制なりと云う

一関町誌稿より
 天正12年8月(AD1584)葛西の家臣二関兵庫勧請

一関市史より
 無格社「神社明細帳書上」。豊隆権現社を明治維新、豊隆神社と書き改めたものである。昭和2年旧8月21日、石殿を保護するため木造社殿を新築した。かたわらに貞享4年(AD1687)の雷神供養塔がある

追補
 昭和42年、社殿の一部を改修する
豊隆太鼓由来
 神社の社殿が改修されたのを契機に、ふるさとの杜に何かしら印象強い独特の芸能を残したいという気運が高まり、雨乞いの古い伝承から太鼓の音律によってお祭りの気分を盛り上げてみようということになり、「豊隆太鼓」が誕生しました。
 太鼓のテーマは宝龍権現の出現によって、先ず風が起こり一天にわかにかき曇り、大粒の雨がバラバラと降ってきて地面を潤し、やがて閃光と共に、陰陽の雷神が突如として降下し、雷鳴を轟かして乱舞し、憤怒の形相ものすごく、沛然たる雨を呼び、天地を雷鳴と豪雨で包み、最後の落雷によって天地快明の平和な現実の姿になるという様子を表現しています
 現在では郷土芸能として定着し、地元の活動から更に、修紅短大の生徒達に伝承され受け継がれています
見取り図 交通
 岩手県交通「大槻町」停留所下車、200m弱で境内

 自動車は、境内まで進められる


グーグル地図


境内のたたずまい

写真1
参道の写真  神社は住宅地の一角に鎮座しています。参道の両側には民家が続いています
 その先に令和5年建立の石鳥居が建っていて境内地であることを示しています
 R.6/4/11 撮影

 石鳥居の以前には、赤い木の鳥居が建っていました
 従前の写真

 この鳥居に向かって左側には、昭和20年頃までは『境内に樅の老木二本あり。目通り各八尺』と伝えられた木が梢から根本まで空洞となり鳥の巣になって残っていましたが、昭和22・23年のアイオン・キャサリン両台風の大洪水ですっかり枯れてしまいました。今の住宅は当時は田圃でした
写真2
境内の写真  鳥居から境内を望むと、正面に本殿があります
 本殿の周囲は少し盛り土になっています。植え込みもあります
 R.6/4/11 撮影

 左右には石祠群があります

 従前の写真


写真3
社額の写真  雨冠のついた正字で「豊隆神社」と書かれた社額が掲げられています
 鈴が取り付けられています
写真4
側面の写真  本殿を向かって右から写しました
 境内には雑草やゴミは全くありませんでした

 一関市史に云う貞享4年(AD1687)の雷神供養塔は、写真右端から6番目です。右端から2番目も「雷神」とありますが、こちらは安政6年(AD1859)と彫られています
写真5
最近の写真  平成18年に入ってからは、本殿周囲の濡れ縁が腐朽したために改修工事を行いました


令和6年10月8日現在で更新

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