青竹神社

神社名青竹神社(アオタケジンジャ)
通称青竹稲荷大明神(アオタケイナリダイミョウジン)
鎮座地一関市狐禅寺字舞台
祭神不詳
例祭日3月15日 9月15日
管理者 〒029−0131
岩手県一関市狐禅寺字舞台120番地
佐藤民子氏
由緒

 佐藤孫一所有『文政四年(西暦1821年)巳ノ三月 磐井郡西磐井狐禅寺大命婦稲荷大明神記録書上 並 御宮御建替旧記留』より抜粋意訳
 秀衡公の時代、平泉村塩沢と申す所に人を騙す狐が居て、住民は勿論、そこを通る人まで困らせていた。
 小嶋村の巻ノ鼻と申す所に北上川を船で渡る所があった。狐はたちまちに橋に化け、橋を渡っていた人達を巻き殺すようになった。
 この事が御上に聞こえ、弓の上手な者に命じて橋を射たところ、橋は落ちて狐になり、矢は細谷村に落ちた。それで細谷村と申すようになった。狐の首は矢で射切られて北上川を流れ下り、狐禅寺の大明舞屋敷に流れ着いたので埋めた。これが今の大明舞屋敷と申す百姓屋敷である。
 然るに、死んだ狐は、秀衡公にも化けたり、夜には御番衆数百人を眠りこけさせ、一晩中点しておくべき明かりも消してしまった。博士を呼び出され占ったところ、先の狐の仕業と判明した。
 そこで大明神となし、御宮を建て、別当を白馬山狐禅寺となされた。神官や童女達でお祭事をあそばされた。秀衡公がこのお祭をご覧になられるとき幔幕を張らせ舞台を立てたので、この所を舞台屋敷と話し伝えられてる。舞台屋敷は当時は百姓屋敷だった。秀衡公の御休み所は、敷地の明神といい、当時は桜の木が一本あった。
 この狐禅寺は何時の頃からか村名になったので、元々の狐禅寺を鶏頭山光西寺と改めたが、この経緯を知る者も村中に居なくなってしまった。この光西寺は慶長年中元和の頃(西暦1596−1624年)焼失して、古来の記録や御本尊も無くなってしまった。
 その後、光西寺は中興・開山したが、大明神の別当も居なくなっていた。当時、大明舞屋敷の孫右エ門と申す者が、小さな茅葺きの御宮の内側に二尺四五寸(約75cm)四方の板葺きの内宮を建て、旧暦十一月一日に志ばかりの僅かな費用で御祭事を仕えていた。確かなことは分からない
             來善坊 五十六才
  元禄八年(西暦1695年)三月二十二日
    狐禅寺大明舞屋敷 孫右エ門 六十才 以下連名略
 大肝入 二関市左エ門殿

 上の書上等をお取り上げご吟味の上、元禄九年二月五日に着工、三月十三日に竣工、御遷宮は同十四日、御祭日は三月十五日となる。

 こうして出来た三尺四面の御宮も年月とともに破損し、宝永八年(西暦1711年)  には、狐禅寺村大名舞屋敷稲荷大明神宮守孫左エ門より大肝入宛に御造立願いが出される。
 この願いにより、正徳三年(西暦1713年)二月二十二日着工、二十九日棟上となる。

 その後、文化二年(西暦1805年)八月着工、九月一日に御宮の御拵え開始、十四日までに竣工、九月十五日に和光院様により御遷宮
 その後の記録は無いが の経緯が判明している

見取り図 交通
 一関市中心部から主要地方道一関大東線を東進し、平坦部から丘陵地に入って間もなく、岩手県交通「舞台」停留所から左折して下る道に入る

 下ってすぐの突き当たりを左折すると間もなく道路は右にカーブするが、そのカーブから左折して登り坂になる

 数軒分を登ると、見通しの悪い左カーブがあり、カーブミラーがある。カーブを通ってすぐにまたカーブミラーがあり、そこからは右手に通路が延びている

 通路を進んで程なく、田の畦道に入り、居久根(いぐね。屋敷林)に沿って進む。そこは、もう参道である


 上の道は自動車で参るには不便で足下も悪い。別当宅まで車で進み、敷地内を通行させて貰って参るのは早道である。ただし、私有地を通行するのであるから礼儀は失せぬように注意したい
境内のたたずまい

写真1
参道入口の写真  少し判りにくい道を辿り参道を進むと漸く御社殿が見えてきました

 右手の家は別当宅です

写真2
境内の写真  この写真は別当宅側から登ったときの様子です。境内と鳥居が見えています

 上の写真の参道とは、鳥居の前で合流します
写真3
鳥居からの写真  参道を登り切った正面

 鳥居には「青竹神社」の石の額が掲げられています
 鳥居の向こう両側には阿吽の狐が控えています
 階段を上ると本殿です
 生け垣が廻されています
写真4
遷座祭の写真  平成十七年六月十八日に本殿遷座祭が齋行されました


写真5
本殿正面の写真  青竹神社の社額が掲げられています
 鈴と鈴緒も有ります

 立派に修造された姿です
写真6
狐禅寺村碑の写真  古くあった狐禅寺村碑も今回復刻されました