明治維新によって、徳川幕府が倒れ天皇中心の王政復古の大号令が下された。
天皇は大八州(日本国の古称)を産んだ神の子孫なので、神道を中心とする政治が実施された。そのため、配志和さんも信仰に大きな変化が訪れる。
その最たるものが神仏分離であった。それまでは、永い年代に渡り仏が神になって現れるという本地垂迹説による神仏混淆であった。配志和さんの境内にも、延喜年中に菅神の子の菅原景茂によって建立されたという観音堂(東向一間四面)があった。
この堂の本尊である閻浮檀金十一面観音は、道真公の守り本尊であったとの伝承がある。こればかりでなく、別に修験の堂宇が建立されており、信盛寺日光院と呼ばれていた。配志和神社の祭主及び管理者も権大僧都という道号の羽黒修験日光院の別当であった。境内に鐘楼の礎石が残っているが、ここには中里の大豪商阿部随波一族寄進の高四尺、口径二尺三寸の梵鐘が吊されていた。
明治三年頃、十一面観音は曹洞宗圓満寺に移し、鐘楼は除かれて梵鐘は一関藩知事に没収された。
風土記に載っている「安日社」については、菅江真澄の「はしわのわかば」で『神日本磐余彦天皇の官軍をそむき奉りし長髄彦の兄なる安日』を、子孫の阿部貞任が祀ったとしている如く、天孫降臨の神の神社にふさわしくないものとして、取り払われていった。
そして、配志和神社の祭主も政府から認められた神官が務めるようになる。社領もまた、境内地以外の所有地(山林・耕地など)は政府に取り上げられ、代わりに格式に応じた報酬が支給された。配志和さんは郷社であったので、等外三等の三両であった。これでは神社を維持することが出来ず、桑や茶を栽培することまで考えたようである。
神官自身も、教導職などという国の資格を取らねばならず、氏子制度の組織化の為に務めなければならなかった。藩政時代の寺請制度にかわる役割が神社に課せられた時代であった。
(参考文献・梅森敏男氏『配志和神社考』)