磐井川と立沢川の合流する断崖の嶺上北側、山目立沢に鎮座しているのが立鉾(たちほこ)神社です。古くは立沢明神とも武経社とも呼ばれていました。創建は明らかではありませんが、宝暦四年(AD1754)には建替えしたという記録があります。現在の社殿は明治期に建替えられた石宮です。御祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)です。
配志和神社の末社ですが、このことは御祭神の事績を尋ねれば理解できることです。神話からご紹介しましょう。
天孫(配志和神社御祭神)が高天原(たかまのはら)から葦原中国(あしはらのなかつくに。地上の世界)に天降るとき、地上は未だ乱れていましたので事前に平定しておかなければなりませんでした。この平定の役目は衆目の一致するところ経津主神が撰ばれましたが、この時に武甕槌神が言葉激しく「どうして経津主だけが丈夫(ますらお)で、私は丈夫ではないというのか」と進み出ましたので、この二神が平定の役目を務めることになりました。
そこでまず、出雲の国を治めていた大国主神と交渉して国譲りさせ、その時大国主の神は「天孫がこの矛を用いて国を治めなされば必ず平安になりましょう」と言って国平(くにむけ)の広鉾を献上されました。そして残る妖神邪神鬼神らを武威勇ましく平らげ天孫を迎える態勢作りの功績を果たしたのです。
この神話から、本社配志和神社の天孫降臨神事に連なる神社であることが分かりますし、社名の「立鉾」の由来も分かります。
天孫降臨御巡幸のとき、この神社の関係者二人だけは鎧兜甲冑(よろい・かぶと・かっちゅう)の武者姿で広鉾を棒持しますが、これは武経二神を表した神役の姿なのです。
例祭日は九月二十八日です。宝暦時代の例祭日旧八月二十八日を月遅れでそのまま今日に伝えています。武神のお祭りらしく、例祭日には相撲を奉納するしきたりがあり、力士がいないときには女や子供だけでも必ず相撲を奉納してきました。