配志和神社の往古については社記、口碑、伝説共に景行天皇の四十年(AD110)日本武尊東夷征討のため当国に下向、皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の三神を「岩座山」(イワクラヤマ)通称九本山に勧請、悪徒退散の祈願をしたのが始まりとなっている。社を火石輪宮(ホイシワグウ)と称す。現在この地には二基の石碑があり、東側の大きい方が火石輪神で西側の碑は弘仁四年(AD813)文屋綿麿(ブンヤノワタマロ)?の関連碑という。同地はおおむね四年に一度の神事「御室焼」(オムロヤキ)を行う場所である。(日本総合民俗語録)
以上の口碑は伝説として処理されているが、果たして100%伝説なのでしょうか。類似の足跡はなかったのでしょうか。日本史の正史を記録したものに古代における六種の勅撰史書に「六国史」という書がある。その中の「日本文徳天皇実録」に、仁寿二年(AD852)八月七日条に、配志和神と舞草神に従五位下を授くとある。仁寿二年といえば、坂上田村麿が蝦夷征伐を終了してから五十年程してからの時代である。俘囚の動向には未だ油断のならない時代である。
このような社会不安が消え去らない時代に、朝廷より従五位下という神階を賜わったということの事実と重要性をよく検討されなければならない。
更に、延長五年(AD927)には「延喜式内社」として「神明帳」に登載され、小社ながらも官社に列している。以上の過程にどのようなことがあったのだろうか。そもそも神に神階を授くということは、朝廷よりその神が祈願を受けてその御神徳にて祈願成就が達せられた時に神階を与えたとしている。いわゆる「霊験を示現した神に贈る」これ等は天武天皇元年(AD672)以来、国難に際しての朝廷の重要事項の一つであった。
しからば、この陸奥国において朝廷が国難として苦慮したということはなんであったろう。日本史に記された中には景行天皇の四十年の日本武尊の蝦夷征伐以来、小さな小競合いはいくつかあったようだが、坂上田村麿の蝦夷征伐までは国難と思われるものはなかったようである。いずれにしても、平安時代初期に神階を受け、霊験あらたかなる神として地方の厚い信仰があったという事実を誇りに思う。