配志和さんの庭園は、「二段式庭園」として有名で、日本百庭園の一つに数えられている。西紀一七〇〇年頃に阿部随波が、京都から晋朴(しんぼく)という造園師を招いて造らせたものと云われる。上段は岡池(池に見立てた庭、下段は築山泉水式(山に見立てた造りに、池を配置したもの)である。ここの池は沢水を利用している瓢箪型のもので「月見が池」と呼ぶ。
中心木として、アカマツ、ヤマモミジ、サトザクラなどが配置され、アセビ、アオキの下木に盆栽仕立てのツゲ、イチイ、サツキ、ツツジ、タマイブキが栽植されたもので、五百坪の広さがある。
庭内には享保十八年(AD1733)の「庚申供養六角碑」や随波の「笠石」などがある。造園師「晋朴」は、大槻家や龍澤寺の庭園も造っているが、大槻平泉先生は、「平泉文稿」のなかで、「普朴」(ふぼく)と書いている。中国系の人だとの伝承もある。
社移所前の「初音塚」には『此むめに牛もはつ音となきつべし ばせを』(江戸雨吟集、桃青・延宝四年)、そして境内の「梅香稗」には、『むめが香にのっと日の出る山路かな』(笈日記、元禄七年)が刻まれている。
元禄二年(AD1689)、松尾芭蕉が門人河合曾良を伴って、「奥の細道」を訪れてから五十年後、仙台領蔵人地(直轄地)の大肝入・大槻清慶(きよよし)と門人十一人の「山笑庵連中」によって、芭蕉の顕彰と俳句の普及運動として、明和六年(AD1769)に建立されたものである。連中の人々は山目町を中心とした、裕福な商家・農家の主人達であった。「梅が香に…」の句碑はこの運動の広がりを示すように、藤沢町保呂羽にも見られる。郷土の先人達は、文芸活動を通して互いに教養を高め、更に他国の文人達と交流を深めていくのである。
この文化的風土が、その後の郷土の誇るべき賢人達の輩出を促すのである。