旧国道四号線山目町地内西側に大きく聳える鳥居が目にとまる。配志和神社参道への入り口である。
南側に目をやると、奥州一百座之内配志和神社と刻した石の道標がある。脇に従是(これより)五丁余、仙台、松島、塩釜、金華山、正法寺、中尊寺、須川温泉等への道程が記され、明らかに江戸時代の観光案内といえる。
約二百米程して、神社境内となる参道北側に湯殿山、庚申碑等を含む最初の供養碑群が二つ目の鳥居と共にある。 間もなく当社にとって祭神と共に大事な日本武尊を祭る白鳥神社が御神木の前にある。続いて八雲神社、三宝荒御社と江戸末期に建立された信仰の跡がある。参道を挟んで南側には諸神、諸佛に献納した月拝塔をはじめ地蔵尊、馬頭観世音、庚申、役の行者?と思われるそれぞれの尊像が供養されている。
参道からは少し離れるが、当地方には希な石塔で、月見池の緑にあるのが享保十八年八月十二日建立された「六面幢」がある。これは「金石志」の権威である故司東眞雄氏の研究によれば、修験系神宮寺式の所業であるという。六面それぞれに供養功徳の文面が刻してある。
さてこれからが、地方唯一の境内をもつ参道となる両側には、市指定の樅(モミ)の木の群生を含む杉木立、昼なを暗い参道である。
しばらくして北側に珍しい供養碑が一基ある。「青面金剛、鶏、三猿、日月」を配した正式な庚申供養である。いかにこの種の信仰が厚かったかを知ることができる。
更に第二、第三の供養碑群があるが、これら多くは北上川治水対策事業によって中里地区より引揚った供養碑群である。
更に歩みを進めると、御神橋を挟んで産湯池という珍しい池がある。いかなる伝説の池か勉強不足である。御神橋を渡ると、急に見上げるような石段が目に入る。標柱に剣坂とある。なるほど、うまく命名したものである。百段はあるだろうか、大概の人は息がきれる。
広い境内の南側には新しい社殿が二つある。配志和御社の摂社、末社にあらず、北上川治水対策事業のため適当な社地がないため、配志和社地に仲間入りした社殿である。一つは細谷部落の守護の日吉神社、もう一つは下大林部落の氏神浅間神社である。いずれも三百年からの歴史があり、昭和六十二年に移転した社殿である。
このように当社の足跡には、間断なく地域住民と共に信仰を共にして今日に至っている。中でも江戸中期のその繁盛ぶりは供養碑等の存在が物語ってくれる。