配志和さんは一関地方の古社として尊崇されてきたが、明治四年郷社となり、 明治八年県社に昇格し、最終的に県社で終戦となった。
二段式庭園の上段部にある建物が遥拝所を併設した社務所である。この建物 は旧山目村役場であったが、紀元二千六百(昭和十五)年を記念して新築する に当たり、神社に払い下げ寄贈された物である。
この遥拝所設置以前は、まず麓の白鳥神社を拝んでから、本殿までの長い石 段を辿って登って行ったという。石段といっても、随分と壊れたり流されたり して荒れた石段で登り降りが大変だったという。遥拝所は、本殿・拝殿が高所 にある古社などにおいて、参拝の便に供するために麓に設けた建物である。
参道から遥拝所への入口には自然石の見事な「手水鉢」がある。これは昭和 三十三年にここの裏山の道路工事の際、見つけた大石を加工して寄贈したもの である。ここで清めてからお参りするのである。
遥拝所の内部正面には東郷平八郎元帥の揮毫の社名額がある。昔はここで神 前結婚式を行い夫婦の誓いを立て、社務所の二階で披露宴をしたものである。 その時には庭に鉄の竈を据えて、お吸い物や茶わん蒸しを調理するという詩情 豊かなものであった。
遥拝殿の右側は陸池で、枯山水で形作られているが、そこの小山の所を、土 地の人々は「ころころ山」と呼んでいる。配志和さんを訪れた人は、ふと、幼 き日の想いを呼び起こして、ころころと転げてみたくなるので、自然に名付け られたと「山目郷土読本」は記している。
この庭園は江戸中期には、阿部随波の大番頭である遠藤弥平の宅地であり、 庭園も随波翁を介して遠藤氏が作らせたものと云われ、氏の子孫が去った後、 配志和さんに寄贈されたと云われる。