我が国における「忠魂慰霊」については、江戸時代末期の嘉永六年より明治 維新までの王事に尽した志士の霊を慰むるために明治元年五月京都東山に神祠 を建立したのが起源であり、次いで明治八年東京に招魂社、更に明治十二年に 靖国神社となる。以来全国津々浦々に至るまで忠魂碑の建立がなされ「招魂慰 霊」の祭儀が盛んとなる。
配志和の森にも山目村の忠魂碑として新旧二本の碑が建立されている。
旧忠魂碑は、大正三年十一月七日「帝国在郷軍人会山目村分会」が中心とな
って建立された碑であった。
新忠魂碑(御銘碑)は昭和三十八年十月十日、題字御銘碑国務大臣防衛庁長 官志賀健次郎揮毫、前建設大臣小沢佐重喜謹書により「山目郷友会御銘碑建設 委員」七十二名によって建立されている。内容は太平洋戦争等による犠牲者で、 その人数は海軍少佐高橋慶吉外二百名を数える。それまでの日清・日露の両戦 後、日独・満州・日華等の事変を合わせて二十三名の犠牲者数に比していかに 厳しかったかを知ることができる。
以上は軍人としてだけのものであるが、これら一連の争いのために亡くなっ た人々は全国では数知れず。昭和四十三年五月六日の十勝沖地震の余波のため 旧忠魂碑が折損したのを機に、こうした争いをむにして欲しくないとの願いか ら山目地区民有志一同が昭和四十四年四月二十日に建立したのが「平和祈念」 碑である。
更にこの忠魂碑域には、題字海軍少将子爵田村丕顕揮毫で、これら一連の事 業の先立となった山目村郷軍歴代分会長の芳名碑が皇紀二千六百年記念として 建立されている。
過去の戦争に置いて犠牲となったのは何も人間ばかりではない。馬、犬、鳩 等も参戦したのであります。軍用馬御用という名誉のもとに全国からかり出さ れた馬は何百何千頭あったか知れません。しかもこれらの殆どは国内に帰るこ とがなかったといわれております。これらの魂を祀ったのが「馬魂碑」です。 従三位坂上崇顕謹書とあり建設者は山目馬商組合五十名でした。以来八十余年 過ぎた今日でも花を手向けてくれる人があります。ありがたいことです。