配志和の森さんぽ見出し画像

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主二神社

千田一司

 萩荘方面より黒沢橋を渡って一関へ入るが、渡り終えて間もなく右に曲がると末広町への通りである。約百米ほど東へ進むと、左手に杉本立の林が目に入る。この木立に囲まれるように鎮座するのが、国譲りの神といわれる「大物主神」と、その子といわれる「事代主神」の親子神である。

供養碑の写真

<写真:供養碑>

 境内に立ち入ると数多くの供養碑が立ち並び、根強い信仰の跡がうかがえる。更に歩を進めると、数年前に建立されたと思われる木製の立派な鳥居がある。掲額には「主二神」と彫刻の跡もあざやかである。一見して目にとまったのは本社が「明神鳥居」なのに、ここでは「稲荷鳥居」を建立している。さしたることではないが、宮大工の好みなのかもしれない。



主二神社鳥居の写真

<写真:主二神社鳥居>

 咲き誇る紫陽花を参道の両脇に見ながら、本殿の前に立ち止まると、決して立派な建物ではないが掲額された「主二神」の神額から、永年の風雪に耐えてきた跡を知ることができる。

 これが配志和神社の末社として存在し、何時頃の勧請かは不明なるも、仙台藩の儒学者として有名な「田辺希文」が、藩命にて宝暦年間より明和八年までこの間約二十年間の歳月を要して撰上されたのが「封内風土記」である。この中に「主二神社、大物主神事代主を祀る所」とありますので、すでに二百数十年も以前から信仰された神である。

 それにしても「主二神」とはあまり聞かない社号である。平易に考えれば「大物主」「事代主」の二神を祀ったので「主二神」としたのではないかと思う。

 後世いつの頃か薬師信仰と習合して「十二神将」を祀り、故にこの地を十二神地名の根源との説あるも詳細は不明である。或いは「主(じゅう)二神」と呼称したこともあったのではないかとも考える。



本殿の社額の写真

<写真:本殿の社額>

 伝承的な事はいずれにしても、国を開いた皇孫瓊々杵尊を本社にし末社に国譲りの神大国主、事代主神の二神を祭り、土地の繁栄を願ったものと理解したい。

 社地の周囲は恵まれた環境もあって当時の面影はなく、宅地化している。結構なことであるが、精神的な役割を果たしてもらえる「主二神」となってもらえることを念願します。

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