「山目郷土読本・下」には、「そよ風に動く崖一面の熊笹を後にして、天神様や山神社のお堂が並んでいます。字が上手になる様にと、毎年正ちゃんは書初のお習字を天神様に上げるのです。お堂の中を見たら誰が書いたのか、日本精神という、大文字が懸かっていました」と書いてある。
現在の天神社は、拝殿右の愛宕社の次に並んで、床面積一坪ほど、高さ三米ほどの流造風覆堂の中に、一米ほどの高さの入母屋風鉄扉付の石祠が鎮座している。
覆堂正面上には「天満宮」の社額があり、下の格子戸には受験生によってつけられた合格祈願札が沢山あり、今もって篤い信仰が寄せられている。
「宝暦風土記」には、「延喜中(AD901-923)菅神(菅原道真公)の御子(敦茂公)磐井郡に御座す時、父君帰京(太宰府流罪を許されて京に帰ること)の祈願として、当社を修造し寺閣を建営し」たとあるので、天神社もその頃が建立の最初では なかろうか。又、「菅神の御子、父君の愛し玉ふ蘭奢梅を手自ら此山に植玉ひしよれり、梅の樹多く茂る因て梅ケ森と申伝候」とあり、『蘭梅山』の地名の起源とされている。
この当時既に、配志和さんを尊崇する人々は、安産を祈って梅の木を境内に植えたと記されている。現在も何世代目かの梅樹の若木が、季節には芳香を放っている。
天神社の後に二、五米四方ほどの小池がある。この小池は「硯が池」と呼ばれ、敦茂公が手自ら掘ったものだという。社にお供えする清水がなかった為といわれ、この水で墨をすると、字が上手になったという言い伝えがある。
現在は緑の藻が生え、「生き物はとらないで、そっと大切にみまもりましょう。 社務所」の立て札が傍らにあり、昔の自然が残されている。