通称 すくなひこさん。 鎮座地は中里字根岸九番地 旧奥州街道沿いにある。
天明六年(AD1786)九月、菅江真澄の「はしわのわかば続」には、配志和神社の天孫降臨の祭礼の事が書かれている。その中に『根岸という処にお着きになると、少彦名の神がお出迎えになって、こうしてどんどんお進みになり、お帰りの道でも少彦名の神がお送り申し上げる』とある。それから二百年以上経った現在でも、式年大祭には少名彦神社まで、行列を進めている。
安永風土記(安永四年 AD1775)には、「右以下端郷根岸、根岸大明神社、小名根岸、勧請少名彦命を相祭儀由申伝候処誰勧請と申儀並年月相知不申候事」とあり、少名彦神社の記載はない。根岸大明神社の祭神が少名彦命であることから、後で少名彦神社と呼ばれる様になったのであろう。
言い伝えによれば、少名彦神社は天明年中(AD1781-1788)の創立と言うが、故なき事ではない。
根岸大明神は、地主神として稲荷神社と同様に、前を流れる照井堰・中堰を守ってくれた。天明年間は大凶作の時期であり、大浜水、硫黄山(須川岳)降灰、冷害に見舞われ、天明五年の仙台藩の損亡(ソンポウ=減作)は、五十五万石余に及ん だ。その当時の「はいしわさん」の祭礼は必死なものであったろう。
高皇産霊尊(タカムスビノミコト)に家業の加護を祈り、新たに勧持した根岸の「すくなひこさん」には作物の実りを願い、水害による病気の平癒(ヘイユ=回復)を祈って、天孫降臨行列を行った事であろう。
天明七年には、土地の有力者等が少名彦神社に振鈴を奉納し、八年には、白狐一対を奉納して作物の実りを願っている。
配志和神社と少名彦神社の強い結びつきは、奥州街道山目宿を中心とする住民の、熱心な信仰にあった。農商の生業も照井堰開削(寛永二十年=「照井堰小史」)の努力によって、発展を辿る時代である。
端郷・山目町、同・根岸町の繁栄を願って、両社に篤く尊崇されたのである。
少名彦の神は、少名毘古那(スクナビコナ)とも少彦名命(スクナヒコナノミコト)とも呼ばれる小さな神で、古代の神話伝承によれば、常世(トコヨ)の国から海を越えて来訪した豊饒霊である。一種の殻霊で、粟茎に弾かれて常世に行くとも云い、蛙や案山子(カカシ)が関わったりするので、農耕に関係する神の様である。
県神社庁登録八五九社中で少名彦神社を名乗っているのは、ここだけである。この神が合同されているのは、四十二社(うち、主神六社)土地神・氏神の社に多く、国土・領内鋳護と薬師神社のように、病気療養の神として祭られている。少名彦神社の境内には、雷神塔や須川神碑も奉置されている。